首里城は誰が作った?建立の歴史と関わった人々を解説

沖縄のシンボルとして知られる首里城ですが、「一体誰が作ったのだろう?」と疑問に思う方も多いのではないでしょうか。実は、首里城の建立者は一人ではありません。
その壮大な歴史的背景には、琉球王国の成立から発展、そして薩摩侵攻や沖縄戦といった苦難を乗り越えてきた焼失と再建の歴史が深く関わっています。
初代国王である尚巴志をはじめ、多くの人々の手によって、長い年月をかけて築かれてきました。
この記事では、首里城の建立にまつわる歴史を、琉球王国の歩みと共に分かりやすく紐解いていきます。
この記事を読むことで、以下の点について理解が深まります。
- 首里城の創建に関わった主要な人物
- 琉球王国の成立から発展までの歴史
- 度重なる焼失と再建の過程
- 現代に至るまでの復元の歩み
首里城は誰が作った?琉球王国の歴史から解説

首里城の歴史は、琉球王国の歴史そのものと言っても過言ではありません。特定の人物が一度に建設したのではなく、時代の変遷と共に多くの人々が関わり、拡張・整備を重ねてきました。
ここでは、琉球王国が誕生する前から、その発展期に至るまでの歴史を追いながら、首里城の土台がどのように築かれていったのかを解説します。
首里城はいつ建てられたのか?
首里城が具体的にいつ、誰によって建てられ始めたのか、その正確な創建年代を示す文献は現存していません。
しかし、近年の発掘調査や研究によって、少なくとも14世紀末頃には、その原型となる城が存在していたと考えられています。
この時期の沖縄本島は、まだ統一国家が成立しておらず、各地の有力な按司(あじ)と呼ばれる豪族が勢力を競い合っていました。
首里城も、最初から現在知られるような壮麗な姿だったわけではなく、まずは軍事的な拠点としての性格が強い、比較的小規模なグスク(城)として始まったと推測されます。
つまり、首里城の最初の建立者は特定の個人名を挙げることは難しいものの、14世紀頃に首里の地を治めていた有力な按司が、その礎を築いたと言えるでしょう。
首里城創建前の三山時代とは
14世紀から15世紀初頭にかけての沖縄本島は、北部に「北山」、中部に「中山」、南部に「南山」という三つの勢力が鼎立(ていりつ)し、互いに覇権を争っていました。
この約100年間にわたる分裂の時代を「三山時代」と呼びます。首里城が位置していたのは、この三つの勢力のうちの中山です。
中山は、地理的に本島の中心にあり、良港にも恵まれていたため、中国(当時の明王朝)との交易において優位な立場にありました。
この海外交易によって得た富と情報が、中山の国力を高める大きな要因となります。
三つの勢力は、それぞれが独立した国家のように振る舞い、明に朝貢使節を送って正式な国王として認めてもらおうと競い合っていました。
このような激しい競争の中で、首里城は中山の政治・軍事の中心地として、徐々にその重要性を増していったのです。
琉球王国成立と首里城の役割
長く続いた三山時代の動乱に終止符を打ったのが、中山の佐敷(さしき)という地域の按司であった尚巴志(しょうはし)です。
彼は、巧みな戦略とリーダーシップで勢力を拡大し、1416年に中山を、1429年には北山と南山を滅ぼし、沖縄本島を初めて統一しました。
この統一によって、琉球史上初の統一国家である「琉球王国」が誕生します。
そして尚巴志は、首里城を王国の首都と定め、政治、経済、文化、そして外交の中心地として整備を進めました。
これ以降、首里城は単なる軍事拠点ではなく、国王が居住し政務を執り行う「王宮」としての役割を担うことになります。
また、海外からの使節を歓待する外交の舞台であり、琉球独自の文化が花開く場所ともなりました。琉球王国の成立は、首里城の歴史において最も重要な転換点の一つです。
基礎を築いた第一尚氏とは
尚巴志が建国した琉球王国は、彼の家系である「第一尚氏王統」によって約60年間、7代にわたって統治されました。この時代は、王国の基盤を固めるための重要な時期にあたります。
第一尚氏の王たちは、尚巴志が築いた統一国家を発展させるため、さまざまな政策を行いました。例えば、国内のインフラ整備を進めたり、中国や東南アジア諸国との交易を活発化させたりしました。
この時期の首里城は、王国の中心として整備が進められ、正殿をはじめとする主要な建物の基礎が築かれたと考えられています。
まだ第二尚氏時代のような華麗な装飾はなかったかもしれませんが、王宮としての威厳を備えた姿へと変貌を遂げていきました。
第一尚氏の時代は、後の首里城の発展の土台を築いた重要な期間だったのです。
初代国王である尚巴志の功績
前述の通り、琉球王国を建国した尚巴志は、首里城の歴史を語る上で欠かせない人物です。彼の功績は、単に三山を統一したことだけにとどまりません。
琉球王国の礎を築いたリーダーシップ
尚巴志は、武力だけでなく、優れた交渉力や政治手腕も持ち合わせていました。彼は、各地の按司を巧みにまとめ上げ、安定した統治体制を築き上げます。
また、中国との朝貢貿易を国家の基幹産業と位置づけ、積極的に推進しました。これにより、琉球王国は経済的に大きく発展し、海洋国家としての地位を確立します。
首里城の首都としての確立
尚巴志が首里城を首都として選んだことは、その後の琉球の歴史に決定的な影響を与えました。
首里の丘は、那覇港を見下ろす戦略的な要衝であり、王国の統治に最適な場所でした。彼が首里城を整備し、政治の中心としたことで、首里は名実ともに琉球の心臓部となったのです。
したがって、尚巴志は琉球王国の建国の父であると同時に、「王宮・首里城」の事実上の創設者と言えるでしょう。
城を拡張した第二尚氏の時代
第一尚氏王統は、内乱によって7代で終わりを告げ、1470年に尚円(しょうえん)が新しい国王として即位しました。
彼が興した王統を「第二尚氏王統」と呼び、この王統はその後、約400年もの長きにわたって琉球を治めることになります。
第二尚氏の時代は、琉球王国の黄金期とされ、首里城も最も華やかで壮大な姿へと発展を遂げました。
特に、3代目の尚真王(しょうしんおう)の時代には、大規模な拡張工事が行われ、現在私たちが知る首里城の基本的な構造が完成したと言われています。
王統 | 主な国王 | 期間 | 首里城における主な出来事 |
---|---|---|---|
第一尚氏王統 | 尚巴志 | 1429年~1469年 | ・琉球王国建国<br>・首里城を首都として確立<br>・王宮としての基礎整備 |
第二尚氏王統 | 尚円、尚真 | 1470年~1879年 | ・大規模な城の拡張と整備<br>・正殿などの主要な建物の建立<br>・石垣や城門の整備による城郭の完成 |
このように、尚巴志と第一尚氏が築いた基礎の上に、第二尚氏の王たちが長い年月をかけて城を拡張・美化していきました。
これらのことから、首里城は琉球王国の歴代国王と、建設に携わった多くの人々の努力の結晶であると言えます。
首里城は誰が作った?度重なる焼失と再建の歴史

首里城の歴史は、栄華だけではありません。創建以来、幾度となく火災や戦争によって破壊され、そのたびに再建されてきた不屈の歴史でもあります。
ここでは、琉球王国が経験した苦難の時代から現代に至るまで、首里城がどのように破壊され、そして誰の手によって蘇ってきたのかを解説します。
薩摩侵攻による影響とその後
17世紀初頭、琉球王国の平和は大きな転機を迎えます。1609年、日本の薩摩藩(現在の鹿児島県)が、3000人もの軍勢を率いて琉球に侵攻しました。これが「薩摩侵攻」です。
琉球側も抵抗しましたが、薩摩の強力な武力の前に敗れ、首里城は占領されてしまいます。
この侵攻によって、城内は略奪され、多くの貴重な宝物や記録が失われました。ただし、この時に城の建物が全て焼き払われたわけではなかったようです。
侵攻後、琉球王国は薩摩の支配下に置かれることになりますが、王国自体は存続を許されました。
国王は薩摩を通じて江戸幕府に使節を送る一方、中国との朝貢関係も継続するという、二重属国の立場に立たされます。
このような複雑な状況下でも、琉球の人々は首里城を修復・維持し、独自の文化と誇りを守り続けたのです。
沖縄戦で首里城は完全に破壊された
首里城の歴史上、最も壊滅的な被害を受けたのが、第二次世界大戦末期の1945年に起きた沖縄戦です。
当時、首里城の地下には、沖縄を防衛する旧日本軍の司令部壕が置かれていました。
そのため、首里城とその周辺は、アメリカ軍による最も激しい攻撃目標の一つとなります。
連日のように艦砲射撃や空襲が繰り返され、かつて琉球の栄華を誇った壮麗な建造物群は、一木一草も残らないほど徹底的に破壊されました。
この沖縄戦によって、首里城は文字通り地上から姿を消してしまいます。
450年以上にわたって琉球の歴史を刻んできたシンボルが、わずか数日の戦闘で灰燼に帰したのです。これは、沖縄の人々にとって計り知れない喪失でした。
戦後の復元に向けた長い道のり
沖縄戦が終わり、沖縄がアメリカの統治下に置かれた後も、首里城跡地は荒廃したままでした。
戦後、その跡地には琉球大学が建設され、城の遺構はキャンパスの下に埋もれてしまいます。
しかし、沖縄の人々の心から首里城への想いが消えることはありませんでした。1958年には、城の入口にあたる守礼門が再建され、復興の小さな灯がともります。
その後、1972年に沖縄が日本に本土復帰すると、首里城再建への機運はさらに高まっていきました。
琉球大学の移転が決定し、本格的な復元事業に向けた調査や準備が始まります。
古写真や文献、古老の記憶などを頼りに、かつての姿を再現するための地道な努力が、多くの研究者や技術者の手によって続けられました。
この戦後の長い道のりは、沖縄の人々の平和への願いと、自らの文化を取り戻そうとする強い意志の表れでした。
平成の再建事業とその後の火災
長年の準備期間を経て、1980年代後半から、国営公園事業として首里城の本格的な復元工事が開始されました。
この国家的なプロジェクトには、沖縄県内外から最高の宮大工や職人たちが集結します。
そして1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して、首里城正殿をはじめとする主要な建物が鮮やかに蘇りました。
その後も整備は続き、2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、ユネスコの世界遺産に登録されるに至ります。
しかし、日本中が復興を喜んだのも束の間、2019年10月31日未明、首里城は再び火災に見舞われます。
この火災によって、復元されたばかりの正殿、北殿、南殿など主要な建物が全焼するという、痛ましい事態となりました。
この出来事は、沖縄県民だけでなく、世界中の人々に大きな衝撃と悲しみを与えました。現在、沖縄の人々を中心に、三度目の再建に向けた懸命な努力が続けられています。
総括:首里城は誰が作ったのか
この記事で解説してきた内容をまとめます。
- 首里城の正確な創建年代は不明だが14世紀末には存在した
- 最初の建立者は首里を治めていた中山の按司と考えられる
- 1429年に尚巴志が三山を統一し琉球王国を建国した
- 尚巴志は首里城を王都と定め王宮としての基礎を築いた
- 尚巴志が興した第一尚氏王統が王国の基盤を固めた
- 1470年から始まった第二尚氏王統の時代に黄金期を迎えた
- 特に尚真王の時代に大規模な拡張工事が行われた
- 現在知られる首里城の基本的な構造はこの時代に完成した
- 1609年の薩摩侵攻により大きな被害を受けた
- 薩摩支配下でも琉球の人々は城を維持し文化を守った
- 1945年の沖縄戦で首里城は完全に破壊され地上から消えた
- 戦後、跡地には琉球大学が建設された
- 1958年に守礼門が再建され復興の第一歩となった
- 本土復帰後に本格的な復元事業が始まり1992年に完成した
- 2019年の火災で復元された主要な建物が再び焼失した
- 首里城は特定の個人ではなく多くの人々の手で築かれてきた











